2022年12月16日

星新一賞中間発表

実は星新一賞に応募していました。

今日、三次選考を通過して最終審査に進む13作が発表されたのですが、なんとその中に僕の作品も残っていました。これはうれしい。応募総数2225作中の13作に入ったので、なかなかのものではないでしょうか。

一次選考、二次選考くらいまでは通ると思ってたんですが、結果は伏せられてるので分かりませんでした。で、三次選考の結果が今日分かったと。

また例によって地味な作品を書いたんですよ。星新一賞はSFではなくて「理系小説」を募集してるんですね。だから、SFとしてはわりと緩めの理系小説を書いてみました。ただ、中間審査員という人たちがいて、これが鏡明、牧眞司、山岸真、三村美衣とガチSFの人たちなんです。だから、この中間審査が厳しいかなと思ってたんですよ。

中間審査が終わったかは明記されてないんですけど、前の受賞者のかたによれば、この段階で中間審査は終わってるのだそうです。ということは、ガチSFな中間審査員に許してもらったということなのでしょう。

最終審査員には野口総一さんと合原一幸さんがいるので、そのあたりを狙って書いてみました。いい点をくれるかどうかはさておいて、読んで笑ってくれるんじゃないかな。いや、作品はシリアスですけどね。あとは池澤春菜さんも審査員で、んー、たぶん気に入ってくれると信じたい。他の審査員はわからない。

最終結果の発表は二月です。ここまできたんだから、なにがしかの賞はほしいなあ。「さなコン2」も最終選考まで残って選外だったから、期待は半分くらい。何かを貰える確率は5/13です。

実は時制の誤りでアンフェアになってるところとかあって、何ヶ所か書き直したいんですが、直せないものねえ。あとは待つのみです
posted by きくちまこと at 23:51| Comment(0) | SF

2022年10月09日

イグBFC3参加作品

以下の文章は「イグBFC3」参加作品であり、iPhoneを使ってアドリブで書きました。とりあえずSFのカテゴリーに入れておきます。
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タイトル: アドリブ1
作者: 木口まこと

あの時の気持ちを今思い出してここに表現しようにも、そもそもあの時というのがいつだったのか分からないし、そもそも気持ちがあったのかどうかすら分からないけれども、もし気持ちがあったのだとすれば、それは自由意思の存在を意味するように思えても、いやしかし気持ちがあったような気がするだけかもしれないのだし、だからといって自由意思が存在しないと言い切れるわけでもなければ、いつだか分からないあの時のなんだか分からない気持ちをこうして毛筆にてしたためていると書いたところで、これが電子的に書かれているのは自明なのだから、気持ちも自由意思も実は単なるピクセルの集まりにすぎず、そうだとしたら、世界は不連続ではあっても、量子情報のように非可換なものではなくて、みもふたもない古典的な離散情報の集まりにすぎず、こうしてあの時の気持ちを書き綴っている今の自分も所詮は離散的なピクセルで構成された古典情報のあつまりにすぎないと考えるしかなく、しかし、量子テレポーテーションが実証された今となっては、そもそも古典的な離散情報の実在は疑うべきと思われ、すると現実は絡み合う量子情報でありつつも見かけ上は離散的な古典情報ではないかと考えたとき、しかしそれではベルの不等式が成立してしまうのではないかと気づけるのは自由意思のなせるわざであるようにも思え、とはいえ、思ったり思わなかったりすること自体が量子的な重ね合わせのような気もしてくるとすると、ここでいう気とは量子情報から立ち上る一種の古典的射影にすぎないのかもしれず、そう考えたとき、自分が思い出そうとしていたあの時とはしかし量子情報が作り出した時空の一点にすぎないのだとすれば、それはホログラフィックに時空の境界に住む共形不変な場の理論のいわば場違いな理論的存在にすぎないから、場違いの量子論と呼ばれる理論的枠組みが完成したあかつきには、そこから立ち上がるアンチ・ド・シッタールダ時空に百八の煩悩としてただそこにあるだけではないかとの疑念にとらわれ、それらを有限に押さえ込むための繰り込まれ理論によって自由意思が繰り込まれ織り込まれ嵌め込まれるなら、それぞれの煩悩は発散することなくただそこにあるのだが、そもそもそことはどこなのかといえば、それは量子情報から立ち上る霞のようなそこであり、霧に霞んで見えないアンチ・ド・シッタールダ時空のその端には滝がどうどうと流れ落ちていることを思うなら、共形場違い理論が生み出す世界のありようこそが集合的無意識の根源にすぎないことに気づいてしまうとき、その気づくことこそが畢竟百九番目の煩悩だと知ってしまった今となっては、煩悩が実は無限に存在することは自明の理であり、しかも全ての煩悩を並べて、ひと文字ずつ裏返して作られるものもまた煩悩であることを思い起こすなら、煩悩が連続体の濃度を持つことは明らかであるから、有限のピクセルからなるこの世界に煩悩は存在しえず、それこそがまさに悟りではないかと気づかざるを得ないまま、しかし実はその連続体濃度を有限の量子ビットは軽々と埋め込めるだけの容量を持つであろうと信じるなら、古典的離散ピクセルに偽装した量子ビットに埋め込まれた非可算無限個の煩悩こそがホログラフィックにこの時空を生み出しているのであり、したがってわれわれは煩悩によって構成されているのであるからには、気持ちとは量子的な煩悩の古典的時空への射影に過ぎず、それは堅固であるかのように見えつつもその根源において量子論的に重ね合わされているのであり、重ね合わされた煩悩が作り出す時空こそ、われわれが住むこの世界である以上、善と悪がEPRペアを構成しているのは自明であり、だからこそブラックホールの先には別の宇宙が開けており、そこでは善+悪と善−悪が量子化軸として取られているが、所詮それもまた時空を構成する煩悩の射影にすぎず、いかに宇宙の姿が異なっていようと、それを構成する非可算無限の煩悩は同一であり、しかし非可算無限個の煩悩の同一性を確認するには非可算無限回の照合を要するから、われわれはこの宇宙とあの宇宙の同一性を有限時間内に確認するすべを持たず、そうであるなら宇宙の同一性とは結局は気分の問題であり、その気分とは量子ビットに埋め込まれた煩悩の射影なのであるから、ここにミクロとマクロの双対性と循環性が確立し、ミクロな量子的煩悩がわたしとあなたのマクロな宇宙を生み出し、それは同一でありながら同一ではないという二重性を内包する実体でありつつしかし量子揺らぎが生むいわば幻に過ぎないとするなら、今は忘れ去られた定常宇宙論に従って絶えず生み出される新たな煩悩も実は予め量子ビットに埋め込まれていたものであり、したがって宇宙はその根源である場違いの量子論のレベルにおいて定常宇宙論をも飲み込む定常な存在でありつつも、そこから立ち上るアンチ・ド・シッタールダ時空のレベルでは非定常に拡大を続けており、ミクロには煩悩であるものが、マクロな射影としては悟りであると気づく時、ミクロ・マクロ双対性はさらにわたしの心の中で新たな時空を生み出し、あなたの心の中で生み出された新たな時空とEPR的に相関するから、やがてそれらが真空の相転移とともに巨大な時空になったとしても、EPR相関は壊れることなく保持されつづけ、わたしの時空とあなたの時空はその境界である場違い共形場において重なり合い、煩悩を共有し、それがマクロな宇宙で弁別不可能な悟りを生み出すのだが、これらの理論的思弁を踏まえてもなお、量子的時空揺らぎすら超越するあくまでも古典的離散的事実として、わたしはあなたを愛している。

posted by きくちまこと at 13:55| Comment(0) | SF

2022年08月15日

「日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト」結果発表

僕の作品が最終選考に残っていた「第二回日本SF作家クラブの小さな小説コンテスト」の最終選考結果が発表されました。僕の『春分の月』は残念ながら入選しませんでした。
最終選考に残った時点で期待しなかったと言えば嘘になるので、落ちると悔しいですね。最終候補作は全部読みましたが、バラエティに富みすぎていて、比較は難しいところです。群を抜いてすごい作品というのはなく、接戦だったのではないでしょうか。最後は審査員との相性でしょう。

逆に言うと、自分の作品もずば抜けてはいなかったわけで、そこが問題ですね。このコンテストのすごいところは一次選考通過作のすべてにコメントが返ってくることです。これは大変な労力ですが、ありがたいことです。僕の三作へのコメントもいただいています。興味のあるかたはお読みください。僕の作品は淡々としすぎてるのかもしれません。でも、淡々と書くほうがすきなんだよね。

『春分の月』は今回の課題にがっつり寄せて書いたので、ほかのコンテストに回すのは難しいかなあとも思いますが、1万字に詰め込みすぎた感はあり、改稿はしたいと考えています。『あたしはまだここにいる』のほうがテクニカルですし、完成度も高いので、改稿して創元SF短編賞に出すつもりです。『春分』は最後のイメージが大きいから、創元が好きそうではある。考えます。

今年はあと星新一賞に出すつもりです。作品は半分くらい書けてますが、現状では解決すべき大きな問題がひとつ残っています。
posted by きくちまこと at 12:33| Comment(0) | SF